みなさんどーも ウホウホ!
ゴリゴリTVブログのオスゴリ(@gorigoriTV_)です!!
投資をしている方や、投資を始めようと調べたり、などをした方は一度は投資の神様、「ウォーレン・バフェット」の名前を聞いたり、見たことがあると思います
ですが、、、
- 「ウォーレン・バフェットって誰?」
- 「何をした人なの?」
- 「何でこんなに有名なの?」
- 「投資の神様って、、、」
こんな疑問の解決します
「ウォーレン・バフェット」は、本当にすごい方で、投資で世界で5本の指に入るくらいの大金持ちになった人です
そんな「ウォーレン・バフェット」という方を、以下で紹介していきます
- ウォーレン・バフェットの幼少期
- ウォーレン・バフェットの高校・大学時代
- ウォーレン・バフェットの結婚
- バフェット・アソシエーツ設立
- バークシャー・ハサウェイの経営
- ウォーレン・バフェットの人柄
ウォーレン・バフェットの幼少期
「ウォーレン・バフェット」は、1930年に、アメリカのネブラスカ州のオマハで、「ハワード・バフェット」と「レイラ・バフェット」の間に生まれました
父はネブラスカ出身で、4期にわたってアメリカの下院議員を務め、また株式ブローカーでもありました
「ウォーレン・バフェット」は、6歳の頃にコカ・コーラの訪問販売を行っていました
そして、10歳の頃に「人生の転機」の出来事が起きたそうです
ニューヨークを訪問中、父親に連れられ、ニューヨーク証券取引所の会員だった、オランダ人の「アト・モル」氏と昼食をとりました
食べ終わった後に1人の男が、色々な種類のタバコをもってきて、「アト・モル」氏はその中から好みの葉を選びました
タバコを運んできた男は、「アト・モル」氏が選んだタバコの葉で葉巻を作りました
これをみて、当時の「ウォーレン・バフェット」は、「これが目指すべき高みだ!」と思ったそうです
そして、11歳の頃に初めて、1株38ドルの「シティー・サービス」の株式を3株購入しました
その後、株価は27ドルまで下がりましたが、手放さず40ドルに持ち直したタイミングで株式を売却しました
無事、利益は得ましたが、「シティー・サービス」の株価は、最終的に1株200ドル近くまで上昇しました
この経験から「ウォーレン・バフェット」は、「買ったら手放すな」という現在の投資の判断基準となっていることを学んだそうです
ウォーレン・バフェットの高校・大学時代
「ウォーレン・バフェット」は、高校性になると25ドルの中古のピンボールマシンを購入し、友人の「ドン・ダリー」とビジネスを始めます
そのビジネスは、人気となり初日に4ドルも売り上げました
ですが2人は、稼いだお金を使い込まずに、新たなピンボールマシンに再投資しました
翌年、「ウォーレン・バフェット」は、ピンボールビジネスを1000ドル超で売却しました
ピンボールビジネス以外にも、少年時代に、新聞配達、ガムやソーダの販売、洗車などの色々なビジネスをしたそうです
様々なビジネスを通して、現在の貨幣価値に換算すると53000ドル(約600万円)という財産を築きました
「ウォーレン・バフェット」は、あまり乗り気ではありませんでしたが、父の意をくんで一流校の「ペンシルバニア大学ウォートン校」に入学しましたが、2年で中退しネブラスカ大学に再入学しました
「ウォーレン・バフェット」は、とても熱心な読書家で、ウォールストリートについて書かれた「賢明なる投資家」を読み、この本の著者の「ベンジャミン・グレアム」が教えている、コロンビア大学のビジネススクールに入学します
「ベンジャミン・グレアム」の授業で、A+を獲得したのは「ウォーレン・バフェット」だけだったようです
ですが、「ベンジャミン・グレアム」の会社で、働きたいといった「ウォーレン・バフェット」を、ユダヤ人ではないという理由で拒否したそうです
当時は、ユダヤ人の差別があり、ユダヤ人の就職が困難だった為、「ベンジャミン・グレアム」の会社は、あえてユダヤ人だけを雇っていたようです
なので「ウォーレン・バフェット」は、1951年に修士号取得後に、父の証券会社に株式ブローカーとして就職します
ウォーレン・バフェットの結婚
「ウォーレン・バフェット」は、1952年に「スーザン・スージー・トンプソン」と結婚し、「スーザン」「ハワード」「ピーター」という3人の子供に恵まれました
結婚直後は、月65ドルのアパートを借り、質素な生活をしていました
5年後に、31500ドルで家を購入し、「ウォーレン・バフェット」は今でもそこで暮らしています
二人の関係は複雑で、2004年に「スーザン・スージー・トンプソン」が亡くなるまで夫婦でしたが、結婚生活の半分以上は別居していたそうです
別居していても頻繁に連絡をとりあったり、旅行にいったりしていたそうです
そして、「スーザン・スージー・トンプソン」が亡くなった後に、「アストリッド・メンクス」と再婚しましたが、二人を引き合わせたのは「スーザン・スージー・トンプソン」だったようです
バフェット・アソシエーツ設立
「ウォーレン・バフェット」が24歳の1954年に、「ベンジャミン・グレアム」から誘いを受け、ようやく彼の会社で働くことになりました
ですが、2年後に「ベンジャミン・グレアム」が引退したことで、ゼネラル・パートナーに誘われていましたが、「ベンジャミン・グレアム」のいない会社で働いてもしょうがないと思い辞退しました
オマハに戻った「ウォーレン・バフェット」は、身内を中心に資金を預かって、投資パートナーシップの「バフェット・アソシエーツ」を設立しました
その後、身内以外からも運用を頼まれるようになり、ファンドは増えて、自己資産も含めた運用資金が50万ドルを超えました
1959年29歳の時に、友人に連れられてのちのビジネスパートナーとなる、「チャーリー・マンガー」と食事をしました
2人はすぐに意気投合し、毎日のように連絡しあうようになったそうです
1962年に、「ウォーレン・バフェット」の預かり資産が400万ドル近くなり、11のパートナーシップと100人を超える出資者が集まったが、1人では手に負えなくなり、「バフェット・アソシエーツ」の1社にまとめた
この頃から、「バークシャー・ハサウェイ」の株を買い始めます
バークシャー・ハサウェイの経営
1965年に、「バークシャー・ハサウェイ」の取締役会で、取締役会長に選ばれました
この時、「ウォーレン・バフェット」のパートナーシップの運用資産は、3700万ドルに達していました
1966年に、ダウ平均が1000ドルを超え、「ウォーレン・バフェット」の投資スタイルである、割安株がほとんどなくなり、パートナーシップの出資者をこれ以上増やさないことに決めます
「バークシャー・ハサウェイ」は、もともとの事業である繊維事業が厳しく、資本不足を解消しようと、保険会社の「ナショナル・インデムニティ」を買収します
1970年、40歳の「ウォーレン・バフェット」は、パートナーシップを解散し
「私は今の相場には合ってないし、自分には理解できないゲームをプレイしようとして、これまでの立派な成績を損ねたくはありません。英雄としてやめたいのです」
とパートナーに手紙を送り、「バークシャー・ハサウェイ」の経営に専念します
ですが、繊維事業には限界が訪れ、工員に給料2ヶ月分の金額を契約解除金として解雇し、設備も競売にかけます
そして、「バークシャー・ハサウェイ」を繊維業から、保険業へ転換させました
1974年には、「バークシャー・ハサウェイ」の株価が下落し、「ウォーレン・バフェット」の資産は半減しますが盛り返し、1986年の56歳の時にビリオネアになります
この時「バークシャー・ハサウェイ」からの給料は年間5万ドルでした
1988年には、「ウォーレン・バフェット」にとって、最高の投資の一つである「コカ・コーラ」社の株式を7%も保有していました
配当金なども含めると27年間で、約16倍にもなり年間の利益率は約11%にもなります
1996年には、「バークシャー・ハサウェイ」の株価が、4800ドルから8000ドル以上に上昇し、「ウォーレン・バフェット」の純資産は約42億ドルにのぼった
2008年には、世界長者番付で13年間TOPにいた「ビル・ゲイツ」を抜き、1位となりました
この時、「ウォーレン・バフェット」の純資産は620憶ドルにもなった
ウォーレン・バフェットの人柄
「ウォーレン・バフェット」は、非常に倹約家としても有名で、移動に公共機関も使っています
また、高価な車を何台も所有することはなく、「スバル」などそれほど高価でない車を所有してきたそうです
また、偏食家としても有名で、日本の企業の新工場の式典に出席した時、ある種類のハンバーガーと、ある種類コカ・コーラしか食べない、という事前情報を手に入れた日本企業は、マクドナルドのクォーターパウンダーから具材を全て抜き、ソースも味付けも無い、完全にパンで肉を挟んだだけのものを用意したそうです
コカ・コーラが大好物で、とても甘いチェリー・コークしか飲まないそうで、1日に何本も飲むそうです
また「ウォーレン・バフェット」は、寄付の額がすごく、20016年に自分自身の慈善活動の個人記録を塗り替えた、28億6000万ドル(3000憶円以上)相当の「バークシャー・ハサウェイ」株を、「ビル・メリンダ・ゲイツ財団」をはじめ、数多くの慈善団体に寄付しました
「ウォーレン・バフェット」が寄付した金額は、285憶ドル(約3兆円以上)を超えています
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